yamato.jpg絵:ひよこ豆さん


焼きまんじゅうは、焼いたおまんじゅうに甘いみそダレをたっぷり塗った群馬の郷土食です。
基本的にはまんじゅうの中に餡子はなく、食感は蒸しパンみたいな感じです。
群馬にお越しの際はぜひ食べてみてください。
冷めると硬くなってとても食べにくいので、ぜひ温かいうちに。

そんな焼きまんじゅうが、袋を開けたら小さな女の子になっていました。

[名前]
やまと

[性別]女

[年齢]焼きたて

[性格]おっとりマイペース。しっかりものだけど、ちょっとドジっこ。

[身長]焼きまんじゅう1本分(25cmくらい?)


ひよこ豆さんるつぼページ

国定忠治の焼きまんじゅう

著・岩戸勇太

愛知県豊田市足助町。
ここは紅葉の名所として有名な場所である。記者の仕事をしている私は二月の半ばにここを訪れていた。
ここは紅葉が有名な場所であるが、夏には避暑にやってくる人もおり、冬の今の時期は街の人間が自分の家の雛壇を公開するという雛壇祭りをやっている。
 記者をやっている自分は、冬の足助を記事にするために、自前の車を使ってここまでやってきた。
まずやってきたのが三州足助屋敷だ。
「大人一人です」
受付の女性にそう言い、五百円の入場料を払うと屋根に苔の生えた雰囲気のある門をくぐる。
足助の町でやっている『中馬のお雛さん』祭りに合わせて、ここでも雛壇を飾っている。
昔、人はすべてのものを自給自足していた。食べ物は当然で、着るものも機織りで作っていたのだ。
三州足助屋敷では、その頃に使われていた、温かみのある道具が飾られており、先に予約を入れるとその道具を使って和紙を作ったりするのを体験する事ができる。
私は、ギャラリーになっている土蔵の二階に上がり、ここの名物の土雛を見た。
「へえ」
土雛とは、焼き物に色を塗って作った雛人形である。
私はその中の一つを気に入り、自前のカメラのシャッターを何度も切った。

その後、私は町に入る前に、秋に来れば鮮やかな紅葉が見られるだろうと思われる、香嵐渓のベンチで、缶コーヒーを買って一服した。
そこに……
「もしもし。旅の人」
背中から声をかけられ、振り向くと女の子が立っていた。
着物を着た姿で、どこか人間離れをしている雰囲気がある。
顔つきには愛嬌があって、ふくよかなほっぺた印象的であった。
「あんなにばかばかとフラッシュをたいて、日焼けをしてしまったらどうするつもり?」
そして、自分の隣に腰掛けてきた女の子。着物の背中には、紅葉のマークが着いているのが見えた。
「私は足助もみじ。あそこの雛人形の精霊みたいなものなの」
「君が精霊?」
「信じられないだろうけどそうなんだよ」
私の疑問には、それを一蹴するような返事を返してきた。
「それで、この辺に住んでいる人? なんか見ない顔だけど」
私の事に興味深深といった感じで質問をしてきた。
それから、二、三の質問をされる。その返事の中で、私は、自分が記者である事を話した。
「なら、私が足助の事を案内してあげようか?」
「お願いできるかな?」
彼女が何者なのかはよく分からないが、案内をしてくれるというのなら、ありがたい話だと思い私はその話に乗っていった。
「まずは腹ごしらえよ。びっくり屋にいこまい」
笑顔を浮かべた女の子は、私の手を引いてどこかへと導いていった。

−−−−−−−−−−−−−−−−

国道153沿いに歩くこと数分。昔の家屋をイメージしているような白い木材で作られた店が見えてきた。
「ここはこの辺じゃ有名な店なんだよ」
そう言って、もみじはこの店の五平餅を二つ注文する。
この店の主人が、竹を平べったく切り出した串にご飯を取り付けられた物を、焼いていく。焼いている間、米を焼く香ばしい香りがあたりに充満した。
その中、もみじは私に向けて笑顔で手を差し出してきた。
この店の払いは私にやらせるつもりらしい。

香ばしく焼かれたお米に、秘伝の甘みを持つはっちょう味噌の塗られた五平餅。
それに、この店で別に出している味噌おでんも美味しく、何本でもいけてしまう。
「どう? 美味しいでしょう?」
「うん。美味しいね」
「だらぁ?」
この土地の方言で、「そうでしょう?」という意味を持つ言葉を言ったもみじは、笑顔を私に向けた。
彼女の笑顔はこうして見ると愛嬌があって可愛く見えた。だが……
「そういえば、まだお礼を聞いてないな」
私はもみじの印象的なふくよかな両頬をつねった。
こいつは、私の金を使って五平餅を食べている。
いくら笑顔は可愛くても、腹黒い、いたずら小僧のような奴だ。
こういう奴には、少しばかり制裁が必要だろう。
「ほら言ってみろ。『ありがとうございます』って」
そう言って、私はもみじの両頬を思いっきり引き伸ばした。
「あいらとうこさいやふ……」
もみじは、私に口を引っ張られながらもお礼の言葉を口にし、私は引っ張っている手を放した。
「意地悪な人じゃんね。餅ひとつの金くらいでけっちい……」
「お礼も言えない躾のされて無いいたずら小僧には当然の報いだ」
自分の頬をなでるもみじを尻目に、私は自分の五平餅にかぶりついた。
懲りていないもみじは、またいたずら小僧のような笑顔をして私の背中を見ていたのだ。
「ほうら口にひげができとるよ」
たっぷりと味噌の塗られた大判の五平餅を食べると、どうしても口元に味噌がついてしまう。
もみじは、私の口元に付いた味噌を自分の指ですくって舐め取った。
口元に触れるもみじの、細長い指の感触で、私はつい動揺をしてしまった。
「こんな事で動揺なんかして、これではどっちが小僧か分からないじゃんよ」
一本を取ったといった感じで、勝ち誇ったようにしてにやりとした目を私に向けたもみじ。
「そういうお前こそ」
私は口元に味噌が付いているもみじの頬をぬぐった。
もみじは、それで顔を赤くしていった。
不意に見せる、このような驚いた顔も可愛いと思った。

−−−−−−−−−−−−

「ここが、足助町の市街地だよ」
もみじは私をここに連れてきて言った。
都会育ちの私には、市街地と聞くとコンクリートの町並みを想像するが、ここは木造の家屋が立ち並ぶ場所で、三百年昔の頃のような町並みである。
郵便局などの公共施設も、町並みに合わせて白塗りで木造の建物として作られている。
町をあげて景観を作っている土地なのだ。
田舎の家であるだけあり、飾られているのは一つ一つが豪華な雛壇であった。ほとんどが七段飾りの雛壇で、その豪華さに舌を巻くようなものもある。
「ちょい……雛ならここにとてつもなく可愛いものがいるじゃんか」
雛壇ばかりに興味を引かれてもみじの事をかまっていなかったが、それに腹を立てているらしいもみじは、膨れ面をして私の服の袖を引っ張った。
「しょうがないな…一枚撮ってやるよ」
「しょうがないってのは何じゃい!」
喚いているのにもかまわずに、私はもみじの姿を写真に撮った。
「って! ここで撮っちゃいかんよ!」
「何でだ? けっこうよく撮れているぞ」
私のカメラは、フィルム式だ。どのような写真が撮れたかはすぐに確認できるものではない。
だが、今の写真は、間違いなくいい一枚だった。膨れた顔であったが、彼女の生き生きした姿が撮れたのだ。
それにもかかわらず、もみじは、私の胸にしがみついて胸をぽかぽか叩きだした。
「いたいって……」
「これだけやってもまだ足りん!」
どんどんと自分の胸を叩き続けるもみじをなだめるには、少し時間がかかった。

「こっちについてきて」
もみじの案内で、やってきたのはマンリン書店という名の小さな本屋だ。
外観は他の建物に溶け込んでおり、小さいドアを開けて中を確認しなければ、そこが本屋であるという事は確認できなかった。
「そこの道に入って」
言われるままに、マンリン書店のとなりにある細い道に入る。そこは、猫の道と言えるような細い道だった。
道は細く両側に建物が並んでいる道であるが、ふしぎと窮屈な感じはしなかった。
石作りの道と、昔ながらの作りの家屋に挟まれたその小道は、何も新しいものの無い、本当に昔の姿をそのままに残した風情があり、歴史のある風景を残している場所であった。
「ほい。カメラの用意」
私の前に立ったもみじは、小首をかしげて笑顔を作った。
この姿をもう一度カメラに撮れという事だろう。私はカメラのレンズを向けた。
「……フィルムが切れてる……」
「なぁ!」
私はシャッターを切らなかった。
「せっかくいい場所を用意してあげたんじゃんか! どうしてそんなしょうない事になるの?」
「場所を用意してくれたのはいいが、フィルムが切れたら撮れないからな」
私は言ってその場所を後にした。
「ちょっと! なんでもどんの? 1枚くらい撮っていきんしゃい!」
ぎゃあぎゃあ言って私の背中をポカポカと叩いてくるもみじを気にせずに、私は小道から足助の市街地に戻っていった。

実は、私はもみじの写真を撮っていた。消音機能を使って、撮っている事を隠したのだ。
もみじが膨れ面をしているのを見て、私は心の中で笑っていた。
私も、もみじと同じいたずら小僧であるという事だろう。

昔はここは東海道の宿場町としてにぎわっていたらしい。
馬を貸し出す馬宿や、旅の疲れを癒す宿、それらが、形を変えて今でも残っている。
私は、すぐ隣を歩くわがままな雛人形を事を気遣って、もう雛壇の写真は撮らないようにした。
だが、この小憎らしい雛人形はというと、私の事などお構いなしに市街の様子を楽しみ始める。
「ほらほら。あれあれ」
などと言って、彼女は私の服の袖を引っ張ってきた。彼女が指をさす方向には、日月もなかという店がある。
「あそこは、私の一番のお気に入りじゃんよ」
わざとらしく、唇に指を当てて物欲しそうにして私の事を見る。
「びっくり屋で食べただろう? あそこはどうなんだよ?」
「あそこも私の一番じゃんよ」
「一番ってのは一つしかないはずだぞ」
「ん~……」
もみじは頭を抱えだした。
「私の本当の一番……私の本当の一番……」
私は黙ってそれを見ていた。彼女は、私に足助町の案内をしてくれると言ったはずだ。自分の一番のお気に入りの店や、おすすめの場所などを教えなくてはならないはずである。
彼女の考えがまとまるのを待っていると、もみじは頭を抱えるのをやめて、私に向けて顔を向けた。
「決められんがや」
結局は、どれもが彼女の一番好きなものであるらしい。

−−−−−−−−−−−−−−−

次にもみじは、私をバス停まで案内した。
「歩きっぱなしで疲れただらあ? お風呂に入ってさっぱりしりん」
ここの方言を使って話をするようになってきたもみじ。笑顔も、心なしか生来の無邪気さが現れてきたようである。
ここは一時間に一本おいでんバスが通っている。そのおいでんバスの終点は百年草という施設である。
木々に囲まれた森の中、気持ちのいい川のせせらぎの音がすぐ隣に聞こえる場所に、存在感を持った建物がある。
「ここの入浴料は二百円じゃんね」
この建物の前に着くと、もみじはまた笑顔で手を差し出してきた。
またか……と思いつつも、私は彼女のその笑顔を見ると、自分の財布の紐を緩めてしまう。

いいお湯だった。
体が温まり、体の疲れの取れた私は、ロビーまで歩いていった。そこには、すでにもみじが待っていた。
「どう? ゆっくりするにはちょうどいい場所だらあ?」
ロビーの一つの椅子に腰掛けているもみじは、すでに手にコーヒー牛乳を持っていた。あれの払いも私であろう。もうすでに突っ込む気力は消えうせている。
私が何も言わないのをいいことに、もみじは小憎らしくも悠々としていた。
「ここにはZiZi工房っていうソーセージ屋さんと、バーバラハウスっていうパン屋さんがあるじゃんね」
もみじの言いようからするに、またそこで何かを買って、私に払いをやらせるつもりらしい。
それを分かった上で、私はふと『買ってやろう』などと考えてしまう。
彼女の愛嬌のある笑顔や、いたずら好きで小憎らしいが、けっして嫌な感じのしない態度には、普段から取材と事務仕事の繰り返しで、気づかぬうちに心をすり減らしていた自分の心を癒してくれたようだ。
私は、おもむろにもみじの頭に手を置いた。
「え……どうしたんよ?」
私の不意の行動に、顔を赤らめて反応をしてくれるもみじの顔も、またかわいかった。

ZiZi工房とは『じじいの工房』という意味から取って付けられた名前らしく、この村の年配達がソーセージを加工している姿が、ガラス越しに見えるようになっていた。
一つ試食をしてみたが、かぶりつくと、カリッと気持ちのいい音がして、ソーセージの肉汁が口の中に広がる。
そこらのスーパーで売っているような品とは比べ物にならない美味しさだ。
「ここのは本当に美味しくて、いくらでもいけちゃうんよ」
そう言いながら、もみじはまた一つ、また一つと、口の中に放り込んでいった。
「あんまり食いすぎるなよ」
「うん。分かった」
そう釘を刺しておいたが、それがどれほどの効果を持つだろうか?
もみじの返事を聞くだけでは、どうも信用が置けない。
ガラス越しに見えるソーセージを作る姿は真剣そのものである。
足助町は、日本に昔から伝わっているような硬い文化のみを重んじているような印象があったが、このように新しい事にも挑戦をし続けている。
本気になって何かをやろうという人の、熱意のある姿は見てていて悪いものではない。
私は、そのおじいさん達の姿を何度もフラッシュを焚いて撮った。それに気づいてくれた彼らは、私に対して笑顔で手を振ってくれたのは印象的であった。
「もみじ。もう行くぞ」
私は、もみじに向けて言った。
「そうじゃんね。もうお腹いっばいだし」
お腹いっぱいというフレーズに嫌な予感を感じた私。
試食品が置いている棚を見ると、もみじは、意地汚くも、試食として置いてあるソーセージをほとんどたいらげてしまっていたのだ。
「どれだけ意地汚いんだお前は」
「いったいて……ごめん許して……」
私は、もみじの頬をおもいっきりつねった。
店の人は別にかまわないと言ってくれたが、ばつが悪くなった私は、お土産用として売っているセットを購入して家まで送ることにした。
話によると、このセットはネットでも注文を受け付けているという事だ。
(この味が恋しくなったら、また注文をする事にしよう)
私は、痛がって頬をさするもみじを叱りながらも、そう考えた。

−−−−−−−−−−−−−−

私達二人は、おいでんバスに乗って、元の足助市街に戻っていく。そのバスの中で、もみじは私に話しかけてきた。
「もうそろそろ、暗あなるね」
そろそろ日が傾きかける時間だ。西日が差し込んでくる茜色のバスの中、もみじは、前の席から私の顔を覗き込んできた。
「ねえ今日はおもろうかった?」
何度も私に向けてきた笑顔。だがそれには少しかげりがあるように見えた。
「楽しかったよ。ありがとう」
そう言い、私は笑顔のもみじの頭をなでた。
「できれば、明日も案内をおねがいできないか?」
そこに、なぜかもみじの目じりに涙が浮かんだのが気にかかる。
「どうしたんだ?」
「私は、今日一日しか外に出られないんだ」
目じりに涙が浮かんだままだが、彼女は笑顔を崩さずに言う。
「今日は私も本当に楽しかった。こんなに楽しかったのは久しぶりなんね」
そして、とうとうこらえきれなくなってしまったのか、目から涙が線を作ってこぼれていった。
「楽しかった分、別れるのが悲しくて……こんなわがままな私と遊んでくれてありがとう……」
「どういう事だい? 私は今日ここに泊まるんだよ。明日また会えばいいじゃないか?」
泣いているもみじの頭を抱きかかえた私は聞いた。
「私がの雛人形の精霊みたいなものだってのは言ったよね……」
もみじは、私に手を伸ばしてきた。その手は、まるで存在が消えかけているように透けている。
私がその手を取ろうとするが、私の手は空を切った。
「そろそろ時間みたい……」
こんな事だったらもっと早く言って欲しかった。
今日一日の思い出は、無邪気で生意気なもみじという女の子とのふれあいが、すべてと言ってもいい。
できることならば、明日も、その次の日も、こんな楽しい日をおくりたいと思っていた。
その願いは、こんなどうしようもない形で打ち壊されることになってしまったのだ。
「できれば、私は明日も明後日もこんなふうにして遊びまわりたかったよ。だけど、私は人間じゃないし、あなたと一緒にいる事ができるのはほんの短い間だけなんだ……」
私は胸がいっぱいになり、何も言う事ができなかった。
ついさっきまで、ひっぱたいたり、つねったりしてきたのに、今では彼女の手を握ることすらできないのだ。
彼女のために何かをしてあげたい。そう思う想いだけが、胸の中を占めていく。
そして、何もしてやれる事なんて無いという事実が、どうしようもなく自分の胸を痛めつけた。
「最後に、一緒に行って欲しいところがあるんだ……」

−−−−−−−−−−−−−−−

私達二人は、香嵐渓に戻ってきた。
「最後にこれだけ見ていきんしゃい」
もみじを中心にして、葉の落ちた紅葉の木が紅葉を始めた。
「あなたにしか見えない、あなただけの特別もんじゃんよ」
みるみるうちに赤い葉をつけた木は広がっていき、山全体が秋にしか見ることのできない紅葉でいっぱいになった。
茜色の日を浴び、赤い葉が一段と輝く。地面いっぱいにもみじの葉が落ちて、これまた鮮やかな絨毯のようになっていた。
もみじは、私に近くにあるこしかけに座るように促すと、彼女自身は私の隣に座った。
「いつまでも、ずっと見ていられるだらあ?」
もみじが言うように、鮮やかで、むしろ神秘的にすらみえる香嵐渓の紅葉は、いくらでも目を楽しませてくれる。
おもむろに私の前に立ったもみじは、消えかけた手を私の頬に伸ばす。
だが、その手では私に触れることはできずに、空を切るだけだった。
「ほら言ってみろ『ありがとうございます』って」
びっくり屋で、私が彼女にした事をオウム返ししているつもりらしい。
「あいらとうこさいやふ……」
私も、仕返しに彼女が言ったことをそっくりそのままオウム返ししてやった。
「ぷっ……あっははははははは」
もみじは、私が言うのを聞いて笑い始めた。私もつられて笑ってしまう。
「はっははははっはっはは」
二人の笑い声が、紅葉の美しい香嵐渓に響いていった。

二人は、足助屋敷の前に来た。
「ここでお別れじゃんな」
もみじは、もう泣き顔を見せてはいなかった。私と始めて会った時のような愛嬌のある笑顔をしていたのだ。
「また会おうな」
足助屋敷の方に向かって歩いていくもみじの背中に声をかけた。もみじの体はほとんどが消えてしまっている。いつ完全に消えてしまってもおかしくないような様子であった。
最後に、もみじは私に向けて振り返ってきた。
「また足助町においでん」
その言葉を最後に、もみじは消えていってしまった。
もう別れは済ませている。すっきりした気分の私は、今夜泊まる予定の宿へと足を向けた。

次の日、私はもう一度足助屋敷に足を向けた。中に入ると、すぐに雛壇に向けて歩いていく。
「これだな……」
雛壇をいくつも見ていくと、私は目的の雛人形を見つけた。
それはこじんまりとしていて、あのもみじのイメージにぴったりの可愛い姿をしていたのだ。
私は、フラッシュを焚いて、何度もその雛を写真に撮った。
もう一度、もみじが私のところにやってきて、小憎らしく『あんなにばかばかとフラッシュをたいて、日焼けをしてしまったらどうするつもり?』などと言いに来る事を期待していたのだ。

もみじは、昨日楽しく遊んだ記者が雛人形を何度も写真に収めているのを見た。
彼が期待をしている事は手に取るように分かる。
もみじは、今人の目に映らない。彼に声をかけたいが、何を言っても届かない。
その事実に、もみじは、嬉しいような、寂しいような、複雑な気持ちを抱えながら彼の事を見ていた。
「たあけ。私はこっちじゃんな」
別の雛人形の精霊であるもみじは、小憎らしい笑顔をしながらそう言った。

結局期待はかなわなかった。
あの時会った少女は幻であったかのように姿を消してしまった。滞在をする事ができるのは今日が最後で、今日の夜には東京に帰らなければならない。
名残を残しながらも、私は足助町を離れていく。

皆さんも。もし、雛人形の精霊を名乗る女の子と出会うことがあったら、どうか彼女と一緒に遊んであげて欲しい。

終了

 


 

ライターより

風光明媚な風景に、一年中何かしら楽しむことができ、やってくる人も多い人気の場所です。
私はびっくりや、足助市街地、百年草、香嵐渓と、書きましたが、自分として他におすすめなのは足助城です。
この場所は、東海道の宿場町として多くの物流があり、みやげ物や宿などの店が、多く存在していました。
そこを見守るように高台に立てられた城から眺めることのできる景色はよく、歴史について興味のある自分としても、城の構造などを生で見れるというのは、興味深いものです。
そして、この地では香嵐渓のもみじを語らずにはいれません。
上を見上げると、一面に鮮やかな赤が広がる景色の中で、隣に流れる川の流れの音を聞きながら散歩をするのは最高です。
夜にはライトアップもあり、また違った輝きを見せてくれます。ただ、ライトの当てすぎで紅葉が焼けてしまうといけないため、長い期間やっているわけではありません。やっている期間を先に調べておくとよろしいでしょう。
もみじを堪能した後、ここで捕れた鮎を楽しんだり、いのしし鍋などの、郷土料理も多いので泊まりで行っても一日中楽しめます。
一度行ってみてはいかがでしょうか?

 


岩戸勇太さんるつぼページ

足助観光協会

足助町(Wikipedia)

 

納豆.jpg
絵:白雪うさみ

<設定>
~すず姫~
育ててくれた「ひろたさん」に恩返しをするため、すずひめ大豆の納豆を売り歩くすずひめ大豆の妖精(神様?)。
すずまる大豆くらい超有名な大豆にはなれなくても、多くの人達から愛される大豆になりたいと思っている。
髪型や着物の柄は鈴蘭の花をモチーフに。小粒大豆なので背は低め。

~ひろたさん~
北海道で農家を営むおじさん。知名度の低いすずひめ大豆を一生懸命作っている。
名前の由来は、実在する農家の広田則史さんから。

<参考URL>
くろもりアルファフーズ広田さん大豆納豆(納豆wiki)

 


白雪うさみさんるつぼページ

 

著・山下しんか

 

平日。真夏の暑い日差しの中、俺は京都北部へと愛車を走らせていた。
今日は快晴。走っている時はいいが、信号待ちなんかで停車すると、途端にヘルメットの中が蒸れてくる。
特に、どこかに用事があるワケじゃない。でも、走り慣れた道だ。
このルートが気に入って、俺は仕事が休みになる度に、こうしてツーリングを楽しんでいる。
そしていつものように、宮津の名所『天橋立』に寄ったとき――
俺は、彼女と出逢った。
「ねぇ、それ、あなたのバイクですか?」
夏の暑気の中、涼やかに響く声。その声に振り向くと、そこには、真白な姿があった。
花束を手に持ち、海風にはためくスカートと麦わら帽子を押さえ、彼女は微笑んだ。
一見して儚げな貌。だが、そこには悪戯っぽい微笑みが乗っている。
「そうだけど……平日に珍しいね。観光?」
「あなたも」
返ってきた言葉に、俺は一瞬思考が停止する。
「あなたも、平日にツーリングですか?」
繋がれた言葉で、俺は納得した。
「まぁね。どう? 天橋立」
「面白いです! でも……バスがなくって、ちょっと困ってたりします!」
「……ああ……まぁ、そうかな」
観光地とはいえ、田舎には違いない。とはいえ、天橋立は特別だ。バスの本数もかなりあるハズなのだが。
「急ぐ旅かい?」
さっきから俺の愛車を凝視している彼女の様子に、俺は口元を引きつらせながら訊いてみた。もし、宮津駅まで送ってくれ、とか言われたらきっぱりと断るつもりだ。来た道を戻りたくはないからな。
だが、俺のその言葉を待っていたかの様に、彼女は微笑った。
「経ヶ岬に行きたいんです! できれば今日中に!」
それならば納得がいった。確かに、あっち方面行きのバスは便数も少ない。
――ま、いっか――
改めて見ると、彼女はカワイイ。そんな子と、2ケツするのも悪い気分ではないワケで。
「メット、入れてたかな」
俺は、後部のパニアケースを開く。中には、安物のフルフェイスヘルメットが入っていた。
「……いいのっ?」
俺の様子に彼女が喜色を浮かべた。
俺は、自分がこれまで被っていたヘルメットを渡すと、その安物を自分で被る。
「ちょっと汗臭いかもだけど、そっちのが丈夫だから」
運賃代わりに、ちょっと意地悪く言ってみる。
事を成すには対価が必要だ。それが嫌だと言うのなら、運ばないというだけの事。
その一方で、万が一にも事故った場合、乗せている人が少しでも生き残りやすくする。そういった事に気を使うのが俺の責任でもあり、こんな子と同道できる事への対価でもある。
「……気にしませんから」
間がちょっと気になるが、彼女はそれでもすんなりと渡されたヘルメットを被った。
俺は腰に付けた二台のレシーバーのスイッチを入れて、俺と彼女のヘルメットから伸びるケーブルを、それぞれのレシーバーに繋いだ。
「キミ、名前は?」
ドルン……
俺は、エンジンを始動して、既に後ろに乗った彼女に視線を送る。
「私、小春です! 楠小春!」
――コハルちゃん……ね――
胸中で名前を反芻し、俺はクラッチをゆっくりと繋いだ。
「じゃあ行くぜ!」
「りょーかいですっ!」
元気いっぱいの小春の声と同時に、バイクは動き始めた。
× × ×
海岸線をひた走る。
左には緩やかな丘。
そして、右には遠浅の海。
照りつける日差しはいよいよ熱いが、それでも海風が心地良かった。
「ちょっとゆっくり走ってもいいかな?」
ヘルメットに付けたマイク越しに、そう話しかける。その通話スイッチの使い方を、走りながら小春に教えているところだ。
暫くの沈黙。サイドミラーで後ろの様子を見る。
ヘルメットから延びるケーブルの先に付いているスイッチ――その使い方に、小春は今ようやく気付いた様子だった。
「え~っと……聞こえてますか~!」
そう聞こえた後で、俺はスイッチを離すようにジェスチャーをしてみせた。
「聞こえてる。俺さ、ここの海見ながら走るのが好きなんだ。少しゆっくり行っていいかな?」
「あ、はい! 私も好きです! この景色!」
小春の了解を得て、俺は少々スピードを緩めた。
遠浅の海は陽光を弾き、煌めきながら沖に向かってその色を濃くしていく。波も穏やかで、砂の色から薄緑、それから鮮やかな青へと変わる。まるで、何色もの色を重ねたガラス細工の様に。
「綺麗……ですね……」
俺と同じ事を思っているのか、小春の呟きがスピーカーから聞こえた。
なんだか良く分からないが、小春は経ヶ岬に行きたいという。俺もいつも走るこのツーリングコースで、その存在は知っている。あそこには、確か古い灯台がある筈だ。
――変わった子……だよな――
小春は花束を持っていた。今それはパニアケースの上に、花びらを後ろ向きにしてくくりつけている。彼女の麦わら帽子と一緒に。
儚い印象を受ける顔立ちと、それ以上に、どこか浮世離れした風体。真夏の白昼夢なんじゃないのか、と、そうも思ってしまう。
「運転、怖くない?」
伊根町に入ったあたりで、俺はそんな事を訊いた。物怖じしない小春の返答は予想がつくが、それでも、なんとなくそう訊いていた。
「あ、全然です! うちのお父さんもバイク乗る人だから、慣れてます!」
――なるほどね――
タンデムライダーに恐怖を与えるような運転をした事はない――とは思っているが、それでも、慣れていないなら怖いと思うかも知れない――
と、そういう気遣いも、小春には無用だったようだ。確かに、彼女は最初から俺の胴には左手一本しか回していない。右手は自由にしているか、それとも後ろに回すかして、半身で景色を眺めたりしている。
「ここ、なんですか? 面白い町~……」
不意に、小春がそんな事を訊いてくる。小春が見ているのは、伊根町名物の舟屋だ。道の右側――海に面した並びに、一見して、ひなびた佇まいの木造民家が立ち並んでいる。
「舟屋って言うんだよ。民家の一階が、そのまま船着場になってるのさ」
「へぇ~! 物知りなんですね~っ!」
「ははっ、もう何十回も走ってるからな。嫌でも覚えるさ」
住宅地を貫く狭い道。そこを、対向車や路駐の車を避けながら進んでいく。
そして、やがて海岸から山の中へと入った。
「あ~あ、海、見えなくなっちゃった……」
残念、という想いをたっぷりと詰め込んで、小春がそんな事を言ってくる。ここから暫くは、山の中を進む事になる。そして、次に海岸に出る時は、崖の上の道になるのだ。
「小春ちゃんは、夏休みなんだ?」
蝉時雨を浴びながら、とりとめも無く訊いてみる。何歳かは聞いていないが、二十代以上には見えない。
「あ……はい。夏休み……です」
――なんだ……? ――
返ってきたのは、トーンの落ちた声だった。それまで元気いっぱいだった彼女。曲がりくねった道の先で、木陰に入った今の状況の様に、どこか陰りを持った声だ。だが――
「高校生?」
――俺は構わずに話を続けた。そこで会話をやめてしまうほど、俺は不器用ではない。こういった時は、下手に言葉を途切れさせると、余計に嫌な空気になってしまうものだ。思春期なら、悩みの一つや二つあって当たり前。むしろそうであってくれると、俺としては小春という存在を確かなものとして感じられるのだが。
「そうです」
「いいねぇ、俺も夏休み欲しいな~」
「あはっ! いいでしょ!」
冗談めかした俺の言葉に、小春は笑い声を返してくれた。
楠小春。十七歳。高校二年生。一人旅に憧れて、ふらっと家を出てきたという少女。元気で、明るくて、そして、どこか陰りを持った少女だ。
× × ×
「ふ~ん、そうなんだぁ……ね、バイクって楽しいですか?」
彼女の事はさておいて、俺が自分ネタを話していると、不意に小春がそんな質問をしてきた。
「ああ、最高だね! もう、これに乗れなきゃ生きていけないな~」
大袈裟に言ってみる。でもそれは、嘘なんかじゃない。まだこれに乗れるから、俺はまだ生きてるって感じることができるんだ。
「私も、免許取ろうかなぁ……こんな大きいのに乗って、運転してみたいですっ!」
――ああ、それ、カッコイイなぁ――
そのセリフで、俺は思わず小春が大型バイクを乗り回している姿を想像してしまっていた。バイク仲間には女の子もいるが、ここまで小柄な子はいない。だが、『小柄な女性が大型バイクを駆る』姿を、俺は一度だけ見たことがある。
「そしたら惚れるなぁ、俺」
「あはっ! ホントですかっ?」
「マジでカッコイイんだよ、小柄なコが大型乗り回してる姿って」
会話を楽しみながら、急坂を登りきったその先で――
「わぁ! また海だぁ~っ!」
小春がその風景を見て、感嘆の声を上げた。
松林の中を走る、一本のつづら折りの道。断崖に沿ったその道の先に、広大な日本海が広がっている。閉塞感のある道の先で、こんな開放感を味わえるのもまた、ツーリングの醍醐味というものだ。
「経ヶ岬まで、あと少しだよ。ここから暫く見晴らしが良くなる。このルートで最高のコースだ」
断崖沿いの道路は曲がりくねりながら続く。景色を楽しむにも、ワインディングを愉しむにも絶好の場所だった。
「楽しみ! だけど……」
不意に、小春のトーンが落ちた。
「どうした?」
「……ちょっと、残念かな、って……もう、終点なんですね……」
「……暗い声出すなって。ここが山場なんだから。景色楽しまなきゃ損だぞ?」
断崖沿いの道に入って、俺はそう言った。この場所から経ヶ岬までは、本当にそう遠くはない。だから俺は、いつも走っているよりも、少しだけスピードを落とした。
× × ×
前方、道の右側に、レストハウスが見えてきた。経ヶ岬レストハウス。軽食も食えるし、土産物なんかも売っている。その駐車場には、旅の小休憩の為に停まっている、何台かのバイクも在った。
だが、俺達はその手前で右に入る分かれ道を進んだ。その先に、経ヶ岬とその灯台が在る。
「とーちゃくっ!」
経ヶ岬灯台駐車場の一番奥でバイクを停めると、小春はそう言ってバイクから飛び降りた。
ふわり、と、それはまるで、カモメの羽が舞い落ちるかのように。
俺もまた、左足でサイドスタンドを出すと、エンジンを切ってバイクから降りた。
「えっと……ヘルメット、どうしよ」
ヘルメットを脱いで、小春が困惑する。その様子に苦笑しながら、俺は彼女のヘルメットを取り上げた。
「ありがとうございましたっ!」
不意に、小春が元気いっぱいに頭を下げる。
「いえいえ、どーいたしまして」
俺は自分のヘルメットをパニアケースに戻し、小春が被っていた物をハンドルに引っ掛けた。平日だからなのか、経ヶ岬灯台の駐車場には俺達以外の姿もない。ハンドルロックのみで、特にタイヤロックをする必要もなさそうだった。
「あのさ、俺も灯台に行っていいかな?」
パニアケースの上から、外した麦わら帽子と花束を渡す。そんなにスピードを出していた訳でもないので、花束は散らずにしっかりとしている。だが、それを見ると、なんとなく不安になってしまったのだ。灯台は断崖にある。まさかとは思うが、小春が――
しかし小春は一瞬言葉に詰まったように黙ると、直後には満面の笑みを浮かべた。
「私の事、心配してくれたんですかっ?」
「ま、まぁ、その……なんつーか……花束だし……お盆も近いし……」
今度は俺が言葉に詰まる。
「しょうがないですねぇ……じゃあ、一緒に来る権利をあげます!」
言って、小春は俺の手を取って歩き始めた。
× × ×
灯台までの道は『小径』といった風情だ。軽く山道で、しかも急斜面。それに舗装もしていない。土道の所々に階段状に木枠を組んでいる場所があり、それがまた歩きにくかった。だから俺は、ものの数分で息を荒らげるハメになった。
「もぅ、だらしないなぁ……」
――ハイ、まったくその通りです――
「ちょ、ちょっと休まない?」
荒い息をつきながら、俺はそう提案してみる。が、
「だ~め! 私が引っ張ってあげるからっ!」
小春は鬼だった。
「はいはい、分かった分かった」
俺は気合を入れた。こんなに運動したのは――いや、歩いたのはいつ以来だろうか。いや、分かっている。『あの日』以来だ。あの日から、俺はこんなに歩いた事など無かった。それは――
そこまで想いを馳せた時、不意に、小春の横顔が目に入った。
懸命に、言葉通りに、俺を引っ張って道を行く少女。その貌に、これまで見てきた明るさが無い。どこか死地へと向かうように――いや、何かと向き合うために、そこに向かっているかの様に。
――だったら、なぜ俺を……? 必要、なのか? 俺が――
それに向き合うために、俺が必要だというのなら。
だが、俺に何が出来るだろうか。彼女の――小春の事など、ほとんど何も知らないのに。
逡巡が、俺の脳裏を埋める。と――
「あれ……かな……」
急に視界の開けたその場所で、小春が呟いた。
「……だな」
俺もそれを目にした。どうやら登りはもう無い様で、斜面を削って造った小径が伸びていくその先に、灯台の白亜の頭が見えていた。
× × ×
そこに辿り着いた時には、時刻は午後三時を過ぎていた。だが日はまだまだ高く、海を見渡すには充分だ。
青く――どこまでも青く澄んだ日本海と、遥かなる大空。趣の異なる二つの青に挟まれるように、その建物は佇んでいた。
思わず見とれてしまう、その優美な姿。
だが、そんな俺の目の前に小春は歩み出て、灯台の足元に、件の花束を添えた。
どこか、憂いを秘めた横顔。思わず、胸が高鳴る。小春はやはり美しく、そしてこの時は、これまでより一層脆く、儚く見えた。
「小春ちゃん……」
訊きかけて、俺は躊躇った。何があるというのか、この場所に。
彼女が胸に秘める想い。それに俺ごときが軽々しく触れていいものなのか。
――そう、思った。
だが、小春は満面の笑みを見せた。
「ここねっ! 私の、思い出の場所なんです! 十年前……お母さんが生きてた頃の……お母さんとの、最後の……」
言葉尻で笑みは消え失せ、小春は俯いた。
「今日は……お母さんに、勇気をもらいに来たの……」
「それは、俺が聞……」
聞いてもいいのか、と訊こうとして、俺は途中でやめた。聞いてもいいから、聞いて欲しいから、小春は俺をここに連れてきたのだ。ようやく、それに気付いた。
だから俺は一歩だけ近づいて、ただ小春の顔を見つめた。
「私、陸上部で、ホントはレギュラーに選ばれてて……今度の大会でも……」
不意に、小春は唇を噛んだ。その目尻にも、じわりと涙が滲んでいる。
「お母さん、十年前にガンで死んで……」
顔を上げ、涙の滲んだ瞳を小春は俺に向けた。
鼓動が速くなる。痛々しくて、そんな小春を見ていられない。だがそれでも、彼女の視線を受け止める事が、俺の役目だと思った。
俺は、分かった気がしたのだ。
どうして小春が元気いっぱいなのか。
どうしてあんなにも明るかったのか。
俺という、見ず知らずの男を安易に頼った理由も。
「病名は……?」
微かに震える声で、俺は呟くようにそう問うた。
そして小春もまた、ワンピースのスカートをたくし上げて、その白い右足――細く色白で、しなやかな右足――の膝を見せた。
「骨肉腫……だ、そうです……」
俺ですら、どこかで聞いた覚えのある病名。骨のガン、と、そういう俗称があったはずだ。だが、それでも最近は、治らない病気ではないという話だった。しかし――
――私、陸上部で、ホントはレギュラーに選ばれてて……今度の大会でも……――
ふと、小春のさっきの言葉が過ぎった。
――バカか俺は! ……治れば、それでいいってもんじゃないだろ! ――
胸中で自分を罵りながら、俺の右足が痛んだ気がした。
陸上の何の選手かは知らない。病気の進行具合も俺には分からない。しかし、足を手術して、また以前と変わらずに走ることなど、俺でさえ出来るとは思えない。だったら、当の本人は、その嘆きはどれほどのものだろうか。
「どうしよう……手術しないと、私は死んじゃうんです。でも、手術しても、『私』は死んじゃう……私……どうすればいいんですか……?」
どうすれば。そんな問いに、俺は答えを出すことができない。
死んでしまうと言われても、助けてやる事も出来はしない。
一時的に慰める事は出来るかも知れない。でも、それに何の意味がある。
だから俺は――
「手術は……いつ?」
その問いを、切り出した。
「明日……です」
すがる様な、小春の瞳。
「覚悟は、できてる?」
小春の眉がひそめられた。
「できるわけ……ないじゃないですか……できるわけ……」
微かにかぶりを振りながら、怯えたように小春が後ずさる。そんな彼女の貌を、ただ真摯に見詰めて、俺はその言葉を紡いだ。
「諦めろ。死ぬよりは、よっぽどマシだ」
始めは、信じられない、という貌。
だがそれが、次第に悲しみに、そして、怒りに塗り替えられていく。
「……ヒドい! ヒドい! あんまりじゃない! なんであなたにそんな事っ! なんで今日逢ったばかりのあなたなんかにっ! ……うぐっ! そんな……っ! こと……っ! あなたにっ! 何が分かるっ! の、よぉっ!」
ボロボロと、小春の頬を大粒の煌輝が駆け下りていく。
幾つも、
幾つも、
幾つも、
幾つも……
俺は、ただ無言のままでその場にしゃがみ込むと、自分のライディングスーツの――そのズボンの右足をたくし上げた。
小春の、息を飲む音が微かに聞こえた。
俺の、胸の奥と――失った筈の右足が、微かに痛んだ気がした。
「俺さ、昔……プロのレーサーだったんだ。だから、小春ちゃん……キミの気持ち、少しくらいは分かるつもりなんだよ」
「……ごめん……なさい、わた、し……そんなつもりじゃ……」
微かに嗚咽を交えながら、小春は視線を俺から外した。
刹那に場を満たす、言葉のない時間。
蝉時雨は止み、海風の音とヒグラシの声だけが、俺達の間を満たしている。
やがて――
「……辛く……ない……ですか……?」
ゆっくりと視線を戻しながら、呟くように小春が訊いてきた。
「辛いよ? なんで? 当たり前だろ? トイレ行くのも、風呂入るのも、買い物行くのも不便だよ」
俺はわざと取り止めも無い日常会話の様に、少し怒った様な口調で――しかし顔には苦笑いを浮かべてそう言った。
「ご、ごめんなさ……」
「でもさ」
俺は、俯く小春の言葉を遮った。
「でも、レーサー続けられなくなった事は、もう、辛くない」
過去の――あの全てを失った喪失感は、言葉通り俺の中にはもう無い。
「え……?」
小春は再び顔を上げた。俺の言葉がそれほどに予想外だったのか、新たに落ちてくる涙の雫はもう無かった。
「そりゃ、あの事故がなかったら――って、『if』を考えることは今でもある。でも俺、最近気付いたんだよ。あの事故は『あった』んだ。過去だから、もう変えようもない。そして、それでも俺は、生きてて良かったんだ、って」
目を瞑ると、俺の仕事仲間の顔が浮かんだ。
「俺、いまバイクショップの雇われ店長でさ。店員はみんなバカばっかだけど、どいつもこいつも楽しいヤツらでさ、仕事は大変な事も辛い事も沢山あるけど……毎日が楽しいんだ」
俺が話していると、小春は指先で涙を拭った。まだ辛そうだが、かすかに微笑んで、俺の傍まで歩み寄ってくる。
俺は続けた。
「それに、俺はまだ、バイク乗れるから。レースに出られなくなった後で、この義足にして、なんとかバイクもまた乗れる様になって……初めて、ツーリングの魅力に気付いた。違う自分を、見つけられたんだ。それは――」
俺が小春に教えてやれるのは、失う辛さを和らげる方法じゃない。そんな方法があるなら、俺が知りたいくらいだ。
『――生きていたから』
俺と、そして、小春の言葉が重なった。
――ようやく、分かってくれた……かな――
穏やかになった小春の表情。それを確認して、俺はやっと安堵した。
「小春ちゃん……この灯台の事、知ってる?」
突然の問いに、小春はきょとんとした貌を見せた。
「経ヶ岬灯台。1898年に建設された、日本でも六ヶ所の灯台しか使用していない、最高級第一等レンズを使用した灯台だ。こんなに儚く見えるのに、もう、百年以上もここで船を見守ってきたんだよ、コイツは。……って、偉そうにウンチク語っても、俺も実物見るのは初めてなんだけどさ」
見上げる俺の視線を追うように、小春もまた、白亜の灯台を見上げた。
もう大丈夫だ。
灯台を穏やかに見上げる小春の横顔を見て、そう、思った。
その姿はあくまでも優美で、しかしそれでいてなお、その身の内に、強さを秘める。
まるで、百年以上も日本海の厳しい風雪を耐えてきた、この――
――経ヶ岬灯台のように――
× × ×
季節は巡り、俺は忙しい日々の中で、バイクレースを観戦に来ていた。とはいえアマチュアレースで、素人が趣味で集った大会だ。だが、こんなのも嫌いじゃない。
「おーおー、キアイ入ってんな、あの16番」
先頭をひた走り、周回遅れに追いつこうとしているマシンがある。白亜のライディングスーツにヘルメット。車体も白で統一されている。荒削りだが、上手いと思った。
「なかなか魅せてくれるけど――遅いな、招待者は」
腕時計を見ながら、俺は苦笑する。時刻は、約束の時間を大幅に過ぎていた。
「っかしーな。指定席用意してんだから、迷ってるとか無いと思うんだが……」
呟きながら、俺は去年の今頃を思い出していた。
あの後、俺は小春を北近畿タンゴ鉄道の最寄り駅まで送った。
駅舎の前でヘルメットを脱いだその下には、もう、怯えた色はどこにも無かった。
去り際、不意に駆け戻ってくる小春は、俺に一つの頼み事をした。恥ずかしそうに、貌を真っ赤にして。そりゃそうだろう。俺も迂闊だったが、訊かないアイツもアイツだ。
「あのっ! 名前っ! 教えてくださいっ! あとあとっ、できればメルアドとかもっ!」
俺は、苦笑しながら社会人の必須アイテムであるところの――名刺を渡した。人伝で、客が増えてくれないものか。そんなスケベ心を微かに上乗せしながら――
「……ん~……からかわれた……かな」
数時間後、俺は人影の消えたレース場を後にした。
――まったくな~……公共交通機関を利用してご来場下さい! とかメールに書いてたからさ~、足ねぇし……駅まで歩くのかったりぃなぁ――
そんな事を考えながら駐車場を横切っていたその時だった。
「ヘイそこのにーちゃん! ツーリング行かないっ?」
背後からかけられた、女の子の声。
振り向いた俺の視線の先には、今日のレースで優勝した、白亜のライダーの姿があった。
「え~……まさか……」
半ばは驚き、半ばは呆れる俺の目の前で、その女性ライダーがヘルメットを脱ぐ。
刹那、さらりとこぼれる見事な黒髪があった。
ヘルメットを脱いだその下。そこには優美な女性の顔がある。去年と比べ、ちょっと大人びたかも知れない。でも、俺から言わせりゃまだまだ『女の子』だ。
結論から言うと、小春の手術は大成功だったそうだ。早期発見が功を奏して、切り取った部分も少しで済んだ。だが、それでも陸上競技で『以前の様な活躍』は期待出来なくなったらしい。
長年打ち込んだものを奪われる辛さは良く分かる。しかし、俺が見込んだ通りに小春は強かった。手術後、医師の診断を待つこと無く、陸上部を退部したのだそうだ。そして、次に打ち込めるものを探した――
――だからこそ……か。まぁ、驚いたけどさ。でも――
俺はにんまりと笑ってみせると、小春の額をつついた。
「まったく、ヒドい逆ナンだな。ヘイってなんだよ、ヘイって」
「逆ナンじゃないよっ?」
ぷっくりと頬を膨らませて、小春はつつかれた額をさする。
「じゃあ何だ?」
「フツーにナンパ。はい、コレ」
一転して笑顔を見せ、小春は車体側面のホルダーからヘルメットを外して俺に渡した。
「こんな時間からか? で、俺がタンデム?」
「もっちろん!」
ヘルメットを被り直しながら、小春が元気よく返事する。
「あ、ヘンなとこ触ったら、落とすからねっ?」
「ヘイヘイ、で、行き先は?」
苦笑しながら、小春の後ろに座ると――
「もっちろん! 経ヶ岬っ!」
「おうわっ?」
ウィリーを決めつつ、急発進で俺達は夕闇のツーリングを開始した。
思い出の場所――
――経ヶ岬に向かって。
(了)

平日。真夏の暑い日差しの中、俺は京都北部へと愛車を走らせていた。

今日は快晴。走っている時はいいが、信号待ちなんかで停車すると、途端にヘルメットの中が蒸れてくる。

特に、どこかに用事があるワケじゃない。でも、走り慣れた道だ。

このルートが気に入って、俺は仕事が休みになる度に、こうしてツーリングを楽しんでいる。

そしていつものように、宮津の名所『天橋立』に寄ったとき――

 

俺は、彼女と出逢った。

 

「ねぇ、それ、あなたのバイクですか?」

 

夏の暑気の中、涼やかに響く声。その声に振り向くと、そこには、真白な姿があった。

花束を手に持ち、海風にはためくスカートと麦わら帽子を押さえ、彼女は微笑んだ。

一見して儚げな貌。だが、そこには悪戯っぽい微笑みが乗っている。

「そうだけど……平日に珍しいね。観光?」

「あなたも」

返ってきた言葉に、俺は一瞬思考が停止する。

「あなたも、平日にツーリングですか?」

繋がれた言葉で、俺は納得した。

「まぁね。どう? 天橋立」

「面白いです! でも……バスがなくって、ちょっと困ってたりします!」

「……ああ……まぁ、そうかな」

観光地とはいえ、田舎には違いない。とはいえ、天橋立は特別だ。バスの本数もかなりあるハズなのだが。

「急ぐ旅かい?」

さっきから俺の愛車を凝視している彼女の様子に、俺は口元を引きつらせながら訊いてみた。もし、宮津駅まで送ってくれ、とか言われたらきっぱりと断るつもりだ。来た道を戻りたくはないからな。

だが、俺のその言葉を待っていたかの様に、彼女は微笑った。

「経ヶ岬に行きたいんです! できれば今日中に!」

それならば納得がいった。確かに、あっち方面行きのバスは便数も少ない。

――ま、いっか――

改めて見ると、彼女はカワイイ。そんな子と、2ケツするのも悪い気分ではないワケで。

「メット、入れてたかな」

俺は、後部のパニアケースを開く。中には、安物のフルフェイスヘルメットが入っていた。

「……いいのっ?」

俺の様子に彼女が喜色を浮かべた。

俺は、自分がこれまで被っていたヘルメットを渡すと、その安物を自分で被る。

「ちょっと汗臭いかもだけど、そっちのが丈夫だから」

運賃代わりに、ちょっと意地悪く言ってみる。

事を成すには対価が必要だ。それが嫌だと言うのなら、運ばないというだけの事。

その一方で、万が一にも事故った場合、乗せている人が少しでも生き残りやすくする。そういった事に気を使うのが俺の責任でもあり、こんな子と同道できる事への対価でもある。

「……気にしませんから」

間がちょっと気になるが、彼女はそれでもすんなりと渡されたヘルメットを被った。

俺は腰に付けた二台のレシーバーのスイッチを入れて、俺と彼女のヘルメットから伸びるケーブルを、それぞれのレシーバーに繋いだ。

「キミ、名前は?」

ドルン……

俺は、エンジンを始動して、既に後ろに乗った彼女に視線を送る。

「私、小春です! 楠小春!」

――コハルちゃん……ね――

胸中で名前を反芻し、俺はクラッチをゆっくりと繋いだ。

「じゃあ行くぜ!」

「りょーかいですっ!」

元気いっぱいの小春の声と同時に、バイクは動き始めた。

 

× × ×

 

海岸線をひた走る。

左には緩やかな丘。

そして、右には遠浅の海。

照りつける日差しはいよいよ熱いが、それでも海風が心地良かった。

「ちょっとゆっくり走ってもいいかな?」

ヘルメットに付けたマイク越しに、そう話しかける。その通話スイッチの使い方を、走りながら小春に教えているところだ。

暫くの沈黙。サイドミラーで後ろの様子を見る。

ヘルメットから延びるケーブルの先に付いているスイッチ――その使い方に、小春は今ようやく気付いた様子だった。

「え~っと……聞こえてますか~!」

そう聞こえた後で、俺はスイッチを離すようにジェスチャーをしてみせた。

「聞こえてる。俺さ、ここの海見ながら走るのが好きなんだ。少しゆっくり行っていいかな?」

「あ、はい! 私も好きです! この景色!」

小春の了解を得て、俺は少々スピードを緩めた。

遠浅の海は陽光を弾き、煌めきながら沖に向かってその色を濃くしていく。波も穏やかで、砂の色から薄緑、それから鮮やかな青へと変わる。まるで、何色もの色を重ねたガラス細工の様に。

「綺麗……ですね……」

俺と同じ事を思っているのか、小春の呟きがスピーカーから聞こえた。

なんだか良く分からないが、小春は経ヶ岬に行きたいという。俺もいつも走るこのツーリングコースで、その存在は知っている。あそこには、確か古い灯台がある筈だ。

――変わった子……だよな――

小春は花束を持っていた。今それはパニアケースの上に、花びらを後ろ向きにしてくくりつけている。彼女の麦わら帽子と一緒に。

儚い印象を受ける顔立ちと、それ以上に、どこか浮世離れした風体。真夏の白昼夢なんじゃないのか、と、そうも思ってしまう。

「運転、怖くない?」

伊根町に入ったあたりで、俺はそんな事を訊いた。物怖じしない小春の返答は予想がつくが、それでも、なんとなくそう訊いていた。

「あ、全然です! うちのお父さんもバイク乗る人だから、慣れてます!」

――なるほどね――

タンデムライダーに恐怖を与えるような運転をした事はない――とは思っているが、それでも、慣れていないなら怖いと思うかも知れない――

と、そういう気遣いも、小春には無用だったようだ。確かに、彼女は最初から俺の胴には左手一本しか回していない。右手は自由にしているか、それとも後ろに回すかして、半身で景色を眺めたりしている。

「ここ、なんですか? 面白い町~……」

不意に、小春がそんな事を訊いてくる。小春が見ているのは、伊根町名物の舟屋だ。道の右側――海に面した並びに、一見して、ひなびた佇まいの木造民家が立ち並んでいる。

「舟屋って言うんだよ。民家の一階が、そのまま船着場になってるのさ」

「へぇ~! 物知りなんですね~っ!」

「ははっ、もう何十回も走ってるからな。嫌でも覚えるさ」

住宅地を貫く狭い道。そこを、対向車や路駐の車を避けながら進んでいく。

そして、やがて海岸から山の中へと入った。

「あ~あ、海、見えなくなっちゃった……」

残念、という想いをたっぷりと詰め込んで、小春がそんな事を言ってくる。ここから暫くは、山の中を進む事になる。そして、次に海岸に出る時は、崖の上の道になるのだ。

「小春ちゃんは、夏休みなんだ?」

蝉時雨を浴びながら、とりとめも無く訊いてみる。何歳かは聞いていないが、二十代以上には見えない。

「あ……はい。夏休み……です」

――なんだ……? ――

返ってきたのは、トーンの落ちた声だった。それまで元気いっぱいだった彼女。曲がりくねった道の先で、木陰に入った今の状況の様に、どこか陰りを持った声だ。だが――

「高校生?」

――俺は構わずに話を続けた。そこで会話をやめてしまうほど、俺は不器用ではない。こういった時は、下手に言葉を途切れさせると、余計に嫌な空気になってしまうものだ。思春期なら、悩みの一つや二つあって当たり前。むしろそうであってくれると、俺としては小春という存在を確かなものとして感じられるのだが。

「そうです」

「いいねぇ、俺も夏休み欲しいな~」

「あはっ! いいでしょ!」

冗談めかした俺の言葉に、小春は笑い声を返してくれた。

楠小春。十七歳。高校二年生。一人旅に憧れて、ふらっと家を出てきたという少女。元気で、明るくて、そして、どこか陰りを持った少女だ。

 

× × ×

 

「ふ~ん、そうなんだぁ……ね、バイクって楽しいですか?」

彼女の事はさておいて、俺が自分ネタを話していると、不意に小春がそんな質問をしてきた。

「ああ、最高だね! もう、これに乗れなきゃ生きていけないな~」

大袈裟に言ってみる。でもそれは、嘘なんかじゃない。まだこれに乗れるから、俺はまだ生きてるって感じることができるんだ。

「私も、免許取ろうかなぁ……こんな大きいのに乗って、運転してみたいですっ!」

――ああ、それ、カッコイイなぁ――

そのセリフで、俺は思わず小春が大型バイクを乗り回している姿を想像してしまっていた。バイク仲間には女の子もいるが、ここまで小柄な子はいない。だが、『小柄な女性が大型バイクを駆る』姿を、俺は一度だけ見たことがある。

「そしたら惚れるなぁ、俺」

「あはっ! ホントですかっ?」

「マジでカッコイイんだよ、小柄なコが大型乗り回してる姿って」

会話を楽しみながら、急坂を登りきったその先で――

「わぁ! また海だぁ~っ!」

小春がその風景を見て、感嘆の声を上げた。

松林の中を走る、一本のつづら折りの道。断崖に沿ったその道の先に、広大な日本海が広がっている。閉塞感のある道の先で、こんな開放感を味わえるのもまた、ツーリングの醍醐味というものだ。

「経ヶ岬まで、あと少しだよ。ここから暫く見晴らしが良くなる。このルートで最高のコースだ」

断崖沿いの道路は曲がりくねりながら続く。景色を楽しむにも、ワインディングを愉しむにも絶好の場所だった。

「楽しみ! だけど……」

不意に、小春のトーンが落ちた。

「どうした?」

「……ちょっと、残念かな、って……もう、終点なんですね……」

「……暗い声出すなって。ここが山場なんだから。景色楽しまなきゃ損だぞ?」

断崖沿いの道に入って、俺はそう言った。この場所から経ヶ岬までは、本当にそう遠くはない。だから俺は、いつも走っているよりも、少しだけスピードを落とした。

 

× × ×

 

前方、道の右側に、レストハウスが見えてきた。経ヶ岬レストハウス。軽食も食えるし、土産物なんかも売っている。その駐車場には、旅の小休憩の為に停まっている、何台かのバイクも在った。

だが、俺達はその手前で右に入る分かれ道を進んだ。その先に、経ヶ岬とその灯台が在る。

「とーちゃくっ!」

経ヶ岬灯台駐車場の一番奥でバイクを停めると、小春はそう言ってバイクから飛び降りた。

ふわり、と、それはまるで、カモメの羽が舞い落ちるかのように。

俺もまた、左足でサイドスタンドを出すと、エンジンを切ってバイクから降りた。

「えっと……ヘルメット、どうしよ」

ヘルメットを脱いで、小春が困惑する。その様子に苦笑しながら、俺は彼女のヘルメットを取り上げた。

「ありがとうございましたっ!」

不意に、小春が元気いっぱいに頭を下げる。

「いえいえ、どーいたしまして」

俺は自分のヘルメットをパニアケースに戻し、小春が被っていた物をハンドルに引っ掛けた。平日だからなのか、経ヶ岬灯台の駐車場には俺達以外の姿もない。ハンドルロックのみで、特にタイヤロックをする必要もなさそうだった。

「あのさ、俺も灯台に行っていいかな?」

パニアケースの上から、外した麦わら帽子と花束を渡す。そんなにスピードを出していた訳でもないので、花束は散らずにしっかりとしている。だが、それを見ると、なんとなく不安になってしまったのだ。灯台は断崖にある。まさかとは思うが、小春が――

しかし小春は一瞬言葉に詰まったように黙ると、直後には満面の笑みを浮かべた。

「私の事、心配してくれたんですかっ?」

「ま、まぁ、その……なんつーか……花束だし……お盆も近いし……」

今度は俺が言葉に詰まる。

「しょうがないですねぇ……じゃあ、一緒に来る権利をあげます!」

言って、小春は俺の手を取って歩き始めた。

 

× × ×

 

灯台までの道は『小径』といった風情だ。軽く山道で、しかも急斜面。それに舗装もしていない。土道の所々に階段状に木枠を組んでいる場所があり、それがまた歩きにくかった。だから俺は、ものの数分で息を荒らげるハメになった。

「もぅ、だらしないなぁ……」

――ハイ、まったくその通りです――

「ちょ、ちょっと休まない?」

荒い息をつきながら、俺はそう提案してみる。が、

「だ~め! 私が引っ張ってあげるからっ!」

小春は鬼だった。

「はいはい、分かった分かった」

俺は気合を入れた。こんなに運動したのは――いや、歩いたのはいつ以来だろうか。いや、分かっている。『あの日』以来だ。あの日から、俺はこんなに歩いた事など無かった。それは――

そこまで想いを馳せた時、不意に、小春の横顔が目に入った。

懸命に、言葉通りに、俺を引っ張って道を行く少女。その貌に、これまで見てきた明るさが無い。どこか死地へと向かうように――いや、何かと向き合うために、そこに向かっているかの様に。

――だったら、なぜ俺を……? 必要、なのか? 俺が――

それに向き合うために、俺が必要だというのなら。

だが、俺に何が出来るだろうか。彼女の――小春の事など、ほとんど何も知らないのに。

逡巡が、俺の脳裏を埋める。と――

「あれ……かな……」

急に視界の開けたその場所で、小春が呟いた。

「……だな」

俺もそれを目にした。どうやら登りはもう無い様で、斜面を削って造った小径が伸びていくその先に、灯台の白亜の頭が見えていた。

 

× × ×

 

そこに辿り着いた時には、時刻は午後三時を過ぎていた。だが日はまだまだ高く、海を見渡すには充分だ。

青く――どこまでも青く澄んだ日本海と、遥かなる大空。趣の異なる二つの青に挟まれるように、その建物は佇んでいた。

思わず見とれてしまう、その優美な姿。

だが、そんな俺の目の前に小春は歩み出て、灯台の足元に、件の花束を添えた。

どこか、憂いを秘めた横顔。思わず、胸が高鳴る。小春はやはり美しく、そしてこの時は、これまでより一層脆く、儚く見えた。

「小春ちゃん……」

訊きかけて、俺は躊躇った。何があるというのか、この場所に。

彼女が胸に秘める想い。それに俺ごときが軽々しく触れていいものなのか。

――そう、思った。

だが、小春は満面の笑みを見せた。

「ここねっ! 私の、思い出の場所なんです! 十年前……お母さんが生きてた頃の……お母さんとの、最後の……」

言葉尻で笑みは消え失せ、小春は俯いた。

「今日は……お母さんに、勇気をもらいに来たの……」

「それは、俺が聞……」

聞いてもいいのか、と訊こうとして、俺は途中でやめた。聞いてもいいから、聞いて欲しいから、小春は俺をここに連れてきたのだ。ようやく、それに気付いた。

だから俺は一歩だけ近づいて、ただ小春の顔を見つめた。

「私、陸上部で、ホントはレギュラーに選ばれてて……今度の大会でも……」

不意に、小春は唇を噛んだ。その目尻にも、じわりと涙が滲んでいる。

「お母さん、十年前にガンで死んで……」

顔を上げ、涙の滲んだ瞳を小春は俺に向けた。

鼓動が速くなる。痛々しくて、そんな小春を見ていられない。だがそれでも、彼女の視線を受け止める事が、俺の役目だと思った。

俺は、分かった気がしたのだ。

どうして小春が元気いっぱいなのか。

どうしてあんなにも明るかったのか。

俺という、見ず知らずの男を安易に頼った理由も。

「病名は……?」

微かに震える声で、俺は呟くようにそう問うた。

そして小春もまた、ワンピースのスカートをたくし上げて、その白い右足――細く色白で、しなやかな右足――の膝を見せた。

「骨肉腫……だ、そうです……」

俺ですら、どこかで聞いた覚えのある病名。骨のガン、と、そういう俗称があったはずだ。だが、それでも最近は、治らない病気ではないという話だった。しかし――

 

――私、陸上部で、ホントはレギュラーに選ばれてて……今度の大会でも……――

 

ふと、小春のさっきの言葉が過ぎった。

 

――バカか俺は! ……治れば、それでいいってもんじゃないだろ! ――

胸中で自分を罵りながら、俺の右足が痛んだ気がした。

陸上の何の選手かは知らない。病気の進行具合も俺には分からない。しかし、足を手術して、また以前と変わらずに走ることなど、俺でさえ出来るとは思えない。だったら、当の本人は、その嘆きはどれほどのものだろうか。

「どうしよう……手術しないと、私は死んじゃうんです。でも、手術しても、『私』は死んじゃう……私……どうすればいいんですか……?」

どうすれば。そんな問いに、俺は答えを出すことができない。

死んでしまうと言われても、助けてやる事も出来はしない。

一時的に慰める事は出来るかも知れない。でも、それに何の意味がある。

だから俺は――

「手術は……いつ?」

その問いを、切り出した。

「明日……です」

すがる様な、小春の瞳。

「覚悟は、できてる?」

小春の眉がひそめられた。

「できるわけ……ないじゃないですか……できるわけ……」

微かにかぶりを振りながら、怯えたように小春が後ずさる。そんな彼女の貌を、ただ真摯に見詰めて、俺はその言葉を紡いだ。

 

「諦めろ。死ぬよりは、よっぽどマシだ」

 

始めは、信じられない、という貌。

だがそれが、次第に悲しみに、そして、怒りに塗り替えられていく。

「……ヒドい! ヒドい! あんまりじゃない! なんであなたにそんな事っ! なんで今日逢ったばかりのあなたなんかにっ! ……うぐっ! そんな……っ! こと……っ! あなたにっ! 何が分かるっ! の、よぉっ!」

 

ボロボロと、小春の頬を大粒の煌輝が駆け下りていく。

 

幾つも、

 

幾つも、

 

幾つも、

 

幾つも……

 

俺は、ただ無言のままでその場にしゃがみ込むと、自分のライディングスーツの――そのズボンの右足をたくし上げた。

小春の、息を飲む音が微かに聞こえた。

俺の、胸の奥と――失った筈の右足が、微かに痛んだ気がした。

「俺さ、昔……プロのレーサーだったんだ。だから、小春ちゃん……キミの気持ち、少しくらいは分かるつもりなんだよ」

「……ごめん……なさい、わた、し……そんなつもりじゃ……」

微かに嗚咽を交えながら、小春は視線を俺から外した。

刹那に場を満たす、言葉のない時間。

蝉時雨は止み、海風の音とヒグラシの声だけが、俺達の間を満たしている。

やがて――

「……辛く……ない……ですか……?」

ゆっくりと視線を戻しながら、呟くように小春が訊いてきた。

「辛いよ? なんで? 当たり前だろ? トイレ行くのも、風呂入るのも、買い物行くのも不便だよ」

俺はわざと取り止めも無い日常会話の様に、少し怒った様な口調で――しかし顔には苦笑いを浮かべてそう言った。

「ご、ごめんなさ……」

「でもさ」

俺は、俯く小春の言葉を遮った。

「でも、レーサー続けられなくなった事は、もう、辛くない」

過去の――あの全てを失った喪失感は、言葉通り俺の中にはもう無い。

「え……?」

小春は再び顔を上げた。俺の言葉がそれほどに予想外だったのか、新たに落ちてくる涙の雫はもう無かった。

「そりゃ、あの事故がなかったら――って、『if』を考えることは今でもある。でも俺、最近気付いたんだよ。あの事故は『あった』んだ。過去だから、もう変えようもない。そして、それでも俺は、生きてて良かったんだ、って」

目を瞑ると、俺の仕事仲間の顔が浮かんだ。

「俺、いまバイクショップの雇われ店長でさ。店員はみんなバカばっかだけど、どいつもこいつも楽しいヤツらでさ、仕事は大変な事も辛い事も沢山あるけど……毎日が楽しいんだ」

俺が話していると、小春は指先で涙を拭った。まだ辛そうだが、かすかに微笑んで、俺の傍まで歩み寄ってくる。

俺は続けた。

「それに、俺はまだ、バイク乗れるから。レースに出られなくなった後で、この義足にして、なんとかバイクもまた乗れる様になって……初めて、ツーリングの魅力に気付いた。違う自分を、見つけられたんだ。それは――」

俺が小春に教えてやれるのは、失う辛さを和らげる方法じゃない。そんな方法があるなら、俺が知りたいくらいだ。

 

『――生きていたから』

 

俺と、そして、小春の言葉が重なった。

――ようやく、分かってくれた……かな――

穏やかになった小春の表情。それを確認して、俺はやっと安堵した。

「小春ちゃん……この灯台の事、知ってる?」

突然の問いに、小春はきょとんとした貌を見せた。

「経ヶ岬灯台。1898年に建設された、日本でも六ヶ所の灯台しか使用していない、最高級第一等レンズを使用した灯台だ。こんなに儚く見えるのに、もう、百年以上もここで船を見守ってきたんだよ、コイツは。……って、偉そうにウンチク語っても、俺も実物見るのは初めてなんだけどさ」

見上げる俺の視線を追うように、小春もまた、白亜の灯台を見上げた。

 

もう大丈夫だ。

 

灯台を穏やかに見上げる小春の横顔を見て、そう、思った。

 

その姿はあくまでも優美で、しかしそれでいてなお、その身の内に、強さを秘める。

 

まるで、百年以上も日本海の厳しい風雪を耐えてきた、この――

 

――経ヶ岬灯台のように――

 

× × ×

 

季節は巡り、俺は忙しい日々の中で、バイクレースを観戦に来ていた。とはいえアマチュアレースで、素人が趣味で集った大会だ。だが、こんなのも嫌いじゃない。

「おーおー、キアイ入ってんな、あの16番」

先頭をひた走り、周回遅れに追いつこうとしているマシンがある。白亜のライディングスーツにヘルメット。車体も白で統一されている。荒削りだが、上手いと思った。

「なかなか魅せてくれるけど――遅いな、招待者は」

腕時計を見ながら、俺は苦笑する。時刻は、約束の時間を大幅に過ぎていた。

「っかしーな。指定席用意してんだから、迷ってるとか無いと思うんだが……」

呟きながら、俺は去年の今頃を思い出していた。

 

 

あの後、俺は小春を北近畿タンゴ鉄道の最寄り駅まで送った。

駅舎の前でヘルメットを脱いだその下には、もう、怯えた色はどこにも無かった。

去り際、不意に駆け戻ってくる小春は、俺に一つの頼み事をした。恥ずかしそうに、貌を真っ赤にして。そりゃそうだろう。俺も迂闊だったが、訊かないアイツもアイツだ。

「あのっ! 名前っ! 教えてくださいっ! あとあとっ、できればメルアドとかもっ!」

俺は、苦笑しながら社会人の必須アイテムであるところの――名刺を渡した。人伝で、客が増えてくれないものか。そんなスケベ心を微かに上乗せしながら――

 

 

「……ん~……からかわれた……かな」

数時間後、俺は人影の消えたレース場を後にした。

――まったくな~……公共交通機関を利用してご来場下さい! とかメールに書いてたからさ~、足ねぇし……駅まで歩くのかったりぃなぁ――

そんな事を考えながら駐車場を横切っていたその時だった。

「ヘイそこのにーちゃん! ツーリング行かないっ?」

背後からかけられた、女の子の声。

振り向いた俺の視線の先には、今日のレースで優勝した、白亜のライダーの姿があった。

「え~……まさか……」

半ばは驚き、半ばは呆れる俺の目の前で、その女性ライダーがヘルメットを脱ぐ。

刹那、さらりとこぼれる見事な黒髪があった。

ヘルメットを脱いだその下。そこには優美な女性の顔がある。去年と比べ、ちょっと大人びたかも知れない。でも、俺から言わせりゃまだまだ『女の子』だ。

結論から言うと、小春の手術は大成功だったそうだ。早期発見が功を奏して、切り取った部分も少しで済んだ。だが、それでも陸上競技で『以前の様な活躍』は期待出来なくなったらしい。

長年打ち込んだものを奪われる辛さは良く分かる。しかし、俺が見込んだ通りに小春は強かった。手術後、医師の診断を待つこと無く、陸上部を退部したのだそうだ。そして、次に打ち込めるものを探した――

――だからこそ……か。まぁ、驚いたけどさ。でも――

俺はにんまりと笑ってみせると、小春の額をつついた。

「まったく、ヒドい逆ナンだな。ヘイってなんだよ、ヘイって」

「逆ナンじゃないよっ?」

ぷっくりと頬を膨らませて、小春はつつかれた額をさする。

「じゃあ何だ?」

「フツーにナンパ。はい、コレ」

一転して笑顔を見せ、小春は車体側面のホルダーからヘルメットを外して俺に渡した。

「こんな時間からか? で、俺がタンデム?」

「もっちろん!」

ヘルメットを被り直しながら、小春が元気よく返事する。

「あ、ヘンなとこ触ったら、落とすからねっ?」

「ヘイヘイ、で、行き先は?」

苦笑しながら、小春の後ろに座ると――

「もっちろん! 経ヶ岬っ!」

「おうわっ?」

ウィリーを決めつつ、急発進で俺達は夕闇のツーリングを開始した。

 

思い出の場所――

 

――経ヶ岬に向かって。

 

(了)

平日。真夏の暑い日差しの中、俺は京都北部へと愛車を走らせていた。
今日は快晴。走っている時はいいが、信号待ちなんかで停車すると、途端にヘルメットの中が蒸れてくる。
特に、どこかに用事があるワケじゃない。でも、走り慣れた道だ。
このルートが気に入って、俺は仕事が休みになる度に、こうしてツーリングを楽しんでいる。
そしていつものように、宮津の名所『天橋立』に寄ったとき――
俺は、彼女と出逢った。
「ねぇ、それ、あなたのバイクですか?」
夏の暑気の中、涼やかに響く声。その声に振り向くと、そこには、真白な姿があった。
花束を手に持ち、海風にはためくスカートと麦わら帽子を押さえ、彼女は微笑んだ。
一見して儚げな貌。だが、そこには悪戯っぽい微笑みが乗っている。
「そうだけど……平日に珍しいね。観光?」
「あなたも」
返ってきた言葉に、俺は一瞬思考が停止する。
「あなたも、平日にツーリングですか?」
繋がれた言葉で、俺は納得した。
「まぁね。どう? 天橋立」
「面白いです! でも……バスがなくって、ちょっと困ってたりします!」
「……ああ……まぁ、そうかな」
観光地とはいえ、田舎には違いない。とはいえ、天橋立は特別だ。バスの本数もかなりあるハズなのだが。
「急ぐ旅かい?」
さっきから俺の愛車を凝視している彼女の様子に、俺は口元を引きつらせながら訊いてみた。もし、宮津駅まで送ってくれ、とか言われたらきっぱりと断るつもりだ。来た道を戻りたくはないからな。
だが、俺のその言葉を待っていたかの様に、彼女は微笑った。
「経ヶ岬に行きたいんです! できれば今日中に!」
それならば納得がいった。確かに、あっち方面行きのバスは便数も少ない。
――ま、いっか――
改めて見ると、彼女はカワイイ。そんな子と、2ケツするのも悪い気分ではないワケで。
「メット、入れてたかな」
俺は、後部のパニアケースを開く。中には、安物のフルフェイスヘルメットが入っていた。
「……いいのっ?」
俺の様子に彼女が喜色を浮かべた。
俺は、自分がこれまで被っていたヘルメットを渡すと、その安物を自分で被る。
「ちょっと汗臭いかもだけど、そっちのが丈夫だから」
運賃代わりに、ちょっと意地悪く言ってみる。
事を成すには対価が必要だ。それが嫌だと言うのなら、運ばないというだけの事。
その一方で、万が一にも事故った場合、乗せている人が少しでも生き残りやすくする。そういった事に気を使うのが俺の責任でもあり、こんな子と同道できる事への対価でもある。
「……気にしませんから」
間がちょっと気になるが、彼女はそれでもすんなりと渡されたヘルメットを被った。
俺は腰に付けた二台のレシーバーのスイッチを入れて、俺と彼女のヘルメットから伸びるケーブルを、それぞれのレシーバーに繋いだ。
「キミ、名前は?」
ドルン……
俺は、エンジンを始動して、既に後ろに乗った彼女に視線を送る。
「私、小春です! 楠小春!」
――コハルちゃん……ね――
胸中で名前を反芻し、俺はクラッチをゆっくりと繋いだ。
「じゃあ行くぜ!」
「りょーかいですっ!」
元気いっぱいの小春の声と同時に、バイクは動き始めた。
× × ×
海岸線をひた走る。
左には緩やかな丘。
そして、右には遠浅の海。
照りつける日差しはいよいよ熱いが、それでも海風が心地良かった。
「ちょっとゆっくり走ってもいいかな?」
ヘルメットに付けたマイク越しに、そう話しかける。その通話スイッチの使い方を、走りながら小春に教えているところだ。
暫くの沈黙。サイドミラーで後ろの様子を見る。
ヘルメットから延びるケーブルの先に付いているスイッチ――その使い方に、小春は今ようやく気付いた様子だった。
「え~っと……聞こえてますか~!」
そう聞こえた後で、俺はスイッチを離すようにジェスチャーをしてみせた。
「聞こえてる。俺さ、ここの海見ながら走るのが好きなんだ。少しゆっくり行っていいかな?」
「あ、はい! 私も好きです! この景色!」
小春の了解を得て、俺は少々スピードを緩めた。
遠浅の海は陽光を弾き、煌めきながら沖に向かってその色を濃くしていく。波も穏やかで、砂の色から薄緑、それから鮮やかな青へと変わる。まるで、何色もの色を重ねたガラス細工の様に。
「綺麗……ですね……」
俺と同じ事を思っているのか、小春の呟きがスピーカーから聞こえた。
なんだか良く分からないが、小春は経ヶ岬に行きたいという。俺もいつも走るこのツーリングコースで、その存在は知っている。あそこには、確か古い灯台がある筈だ。
――変わった子……だよな――
小春は花束を持っていた。今それはパニアケースの上に、花びらを後ろ向きにしてくくりつけている。彼女の麦わら帽子と一緒に。
儚い印象を受ける顔立ちと、それ以上に、どこか浮世離れした風体。真夏の白昼夢なんじゃないのか、と、そうも思ってしまう。
「運転、怖くない?」
伊根町に入ったあたりで、俺はそんな事を訊いた。物怖じしない小春の返答は予想がつくが、それでも、なんとなくそう訊いていた。
「あ、全然です! うちのお父さんもバイク乗る人だから、慣れてます!」
――なるほどね――
タンデムライダーに恐怖を与えるような運転をした事はない――とは思っているが、それでも、慣れていないなら怖いと思うかも知れない――
と、そういう気遣いも、小春には無用だったようだ。確かに、彼女は最初から俺の胴には左手一本しか回していない。右手は自由にしているか、それとも後ろに回すかして、半身で景色を眺めたりしている。
「ここ、なんですか? 面白い町~……」
不意に、小春がそんな事を訊いてくる。小春が見ているのは、伊根町名物の舟屋だ。道の右側――海に面した並びに、一見して、ひなびた佇まいの木造民家が立ち並んでいる。
「舟屋って言うんだよ。民家の一階が、そのまま船着場になってるのさ」
「へぇ~! 物知りなんですね~っ!」
「ははっ、もう何十回も走ってるからな。嫌でも覚えるさ」
住宅地を貫く狭い道。そこを、対向車や路駐の車を避けながら進んでいく。
そして、やがて海岸から山の中へと入った。
「あ~あ、海、見えなくなっちゃった……」
残念、という想いをたっぷりと詰め込んで、小春がそんな事を言ってくる。ここから暫くは、山の中を進む事になる。そして、次に海岸に出る時は、崖の上の道になるのだ。
「小春ちゃんは、夏休みなんだ?」
蝉時雨を浴びながら、とりとめも無く訊いてみる。何歳かは聞いていないが、二十代以上には見えない。
「あ……はい。夏休み……です」
――なんだ……? ――
返ってきたのは、トーンの落ちた声だった。それまで元気いっぱいだった彼女。曲がりくねった道の先で、木陰に入った今の状況の様に、どこか陰りを持った声だ。だが――
「高校生?」
――俺は構わずに話を続けた。そこで会話をやめてしまうほど、俺は不器用ではない。こういった時は、下手に言葉を途切れさせると、余計に嫌な空気になってしまうものだ。思春期なら、悩みの一つや二つあって当たり前。むしろそうであってくれると、俺としては小春という存在を確かなものとして感じられるのだが。
「そうです」
「いいねぇ、俺も夏休み欲しいな~」
「あはっ! いいでしょ!」
冗談めかした俺の言葉に、小春は笑い声を返してくれた。
楠小春。十七歳。高校二年生。一人旅に憧れて、ふらっと家を出てきたという少女。元気で、明るくて、そして、どこか陰りを持った少女だ。
× × ×
「ふ~ん、そうなんだぁ……ね、バイクって楽しいですか?」
彼女の事はさておいて、俺が自分ネタを話していると、不意に小春がそんな質問をしてきた。
「ああ、最高だね! もう、これに乗れなきゃ生きていけないな~」
大袈裟に言ってみる。でもそれは、嘘なんかじゃない。まだこれに乗れるから、俺はまだ生きてるって感じることができるんだ。
「私も、免許取ろうかなぁ……こんな大きいのに乗って、運転してみたいですっ!」
――ああ、それ、カッコイイなぁ――
そのセリフで、俺は思わず小春が大型バイクを乗り回している姿を想像してしまっていた。バイク仲間には女の子もいるが、ここまで小柄な子はいない。だが、『小柄な女性が大型バイクを駆る』姿を、俺は一度だけ見たことがある。
「そしたら惚れるなぁ、俺」
「あはっ! ホントですかっ?」
「マジでカッコイイんだよ、小柄なコが大型乗り回してる姿って」
会話を楽しみながら、急坂を登りきったその先で――
「わぁ! また海だぁ~っ!」
小春がその風景を見て、感嘆の声を上げた。
松林の中を走る、一本のつづら折りの道。断崖に沿ったその道の先に、広大な日本海が広がっている。閉塞感のある道の先で、こんな開放感を味わえるのもまた、ツーリングの醍醐味というものだ。
「経ヶ岬まで、あと少しだよ。ここから暫く見晴らしが良くなる。このルートで最高のコースだ」
断崖沿いの道路は曲がりくねりながら続く。景色を楽しむにも、ワインディングを愉しむにも絶好の場所だった。
「楽しみ! だけど……」
不意に、小春のトーンが落ちた。
「どうした?」
「……ちょっと、残念かな、って……もう、終点なんですね……」
「……暗い声出すなって。ここが山場なんだから。景色楽しまなきゃ損だぞ?」
断崖沿いの道に入って、俺はそう言った。この場所から経ヶ岬までは、本当にそう遠くはない。だから俺は、いつも走っているよりも、少しだけスピードを落とした。
× × ×
前方、道の右側に、レストハウスが見えてきた。経ヶ岬レストハウス。軽食も食えるし、土産物なんかも売っている。その駐車場には、旅の小休憩の為に停まっている、何台かのバイクも在った。
だが、俺達はその手前で右に入る分かれ道を進んだ。その先に、経ヶ岬とその灯台が在る。
「とーちゃくっ!」
経ヶ岬灯台駐車場の一番奥でバイクを停めると、小春はそう言ってバイクから飛び降りた。
ふわり、と、それはまるで、カモメの羽が舞い落ちるかのように。
俺もまた、左足でサイドスタンドを出すと、エンジンを切ってバイクから降りた。
「えっと……ヘルメット、どうしよ」
ヘルメットを脱いで、小春が困惑する。その様子に苦笑しながら、俺は彼女のヘルメットを取り上げた。
「ありがとうございましたっ!」
不意に、小春が元気いっぱいに頭を下げる。
「いえいえ、どーいたしまして」
俺は自分のヘルメットをパニアケースに戻し、小春が被っていた物をハンドルに引っ掛けた。平日だからなのか、経ヶ岬灯台の駐車場には俺達以外の姿もない。ハンドルロックのみで、特にタイヤロックをする必要もなさそうだった。
「あのさ、俺も灯台に行っていいかな?」
パニアケースの上から、外した麦わら帽子と花束を渡す。そんなにスピードを出していた訳でもないので、花束は散らずにしっかりとしている。だが、それを見ると、なんとなく不安になってしまったのだ。灯台は断崖にある。まさかとは思うが、小春が――
しかし小春は一瞬言葉に詰まったように黙ると、直後には満面の笑みを浮かべた。
「私の事、心配してくれたんですかっ?」
「ま、まぁ、その……なんつーか……花束だし……お盆も近いし……」
今度は俺が言葉に詰まる。
「しょうがないですねぇ……じゃあ、一緒に来る権利をあげます!」
言って、小春は俺の手を取って歩き始めた。
× × ×
灯台までの道は『小径』といった風情だ。軽く山道で、しかも急斜面。それに舗装もしていない。土道の所々に階段状に木枠を組んでいる場所があり、それがまた歩きにくかった。だから俺は、ものの数分で息を荒らげるハメになった。
「もぅ、だらしないなぁ……」
――ハイ、まったくその通りです――
「ちょ、ちょっと休まない?」
荒い息をつきながら、俺はそう提案してみる。が、
「だ~め! 私が引っ張ってあげるからっ!」
小春は鬼だった。
「はいはい、分かった分かった」
俺は気合を入れた。こんなに運動したのは――いや、歩いたのはいつ以来だろうか。いや、分かっている。『あの日』以来だ。あの日から、俺はこんなに歩いた事など無かった。それは――
そこまで想いを馳せた時、不意に、小春の横顔が目に入った。
懸命に、言葉通りに、俺を引っ張って道を行く少女。その貌に、これまで見てきた明るさが無い。どこか死地へと向かうように――いや、何かと向き合うために、そこに向かっているかの様に。
――だったら、なぜ俺を……? 必要、なのか? 俺が――
それに向き合うために、俺が必要だというのなら。
だが、俺に何が出来るだろうか。彼女の――小春の事など、ほとんど何も知らないのに。
逡巡が、俺の脳裏を埋める。と――
「あれ……かな……」
急に視界の開けたその場所で、小春が呟いた。
「……だな」
俺もそれを目にした。どうやら登りはもう無い様で、斜面を削って造った小径が伸びていくその先に、灯台の白亜の頭が見えていた。
× × ×
そこに辿り着いた時には、時刻は午後三時を過ぎていた。だが日はまだまだ高く、海を見渡すには充分だ。
青く――どこまでも青く澄んだ日本海と、遥かなる大空。趣の異なる二つの青に挟まれるように、その建物は佇んでいた。
思わず見とれてしまう、その優美な姿。
だが、そんな俺の目の前に小春は歩み出て、灯台の足元に、件の花束を添えた。
どこか、憂いを秘めた横顔。思わず、胸が高鳴る。小春はやはり美しく、そしてこの時は、これまでより一層脆く、儚く見えた。
「小春ちゃん……」
訊きかけて、俺は躊躇った。何があるというのか、この場所に。
彼女が胸に秘める想い。それに俺ごときが軽々しく触れていいものなのか。
――そう、思った。
だが、小春は満面の笑みを見せた。
「ここねっ! 私の、思い出の場所なんです! 十年前……お母さんが生きてた頃の……お母さんとの、最後の……」
言葉尻で笑みは消え失せ、小春は俯いた。
「今日は……お母さんに、勇気をもらいに来たの……」
「それは、俺が聞……」
聞いてもいいのか、と訊こうとして、俺は途中でやめた。聞いてもいいから、聞いて欲しいから、小春は俺をここに連れてきたのだ。ようやく、それに気付いた。
だから俺は一歩だけ近づいて、ただ小春の顔を見つめた。
「私、陸上部で、ホントはレギュラーに選ばれてて……今度の大会でも……」
不意に、小春は唇を噛んだ。その目尻にも、じわりと涙が滲んでいる。
「お母さん、十年前にガンで死んで……」
顔を上げ、涙の滲んだ瞳を小春は俺に向けた。
鼓動が速くなる。痛々しくて、そんな小春を見ていられない。だがそれでも、彼女の視線を受け止める事が、俺の役目だと思った。
俺は、分かった気がしたのだ。
どうして小春が元気いっぱいなのか。
どうしてあんなにも明るかったのか。
俺という、見ず知らずの男を安易に頼った理由も。
「病名は……?」
微かに震える声で、俺は呟くようにそう問うた。
そして小春もまた、ワンピースのスカートをたくし上げて、その白い右足――細く色白で、しなやかな右足――の膝を見せた。
「骨肉腫……だ、そうです……」
俺ですら、どこかで聞いた覚えのある病名。骨のガン、と、そういう俗称があったはずだ。だが、それでも最近は、治らない病気ではないという話だった。しかし――
――私、陸上部で、ホントはレギュラーに選ばれてて……今度の大会でも……――
ふと、小春のさっきの言葉が過ぎった。
――バカか俺は! ……治れば、それでいいってもんじゃないだろ! ――
胸中で自分を罵りながら、俺の右足が痛んだ気がした。
陸上の何の選手かは知らない。病気の進行具合も俺には分からない。しかし、足を手術して、また以前と変わらずに走ることなど、俺でさえ出来るとは思えない。だったら、当の本人は、その嘆きはどれほどのものだろうか。
「どうしよう……手術しないと、私は死んじゃうんです。でも、手術しても、『私』は死んじゃう……私……どうすればいいんですか……?」
どうすれば。そんな問いに、俺は答えを出すことができない。
死んでしまうと言われても、助けてやる事も出来はしない。
一時的に慰める事は出来るかも知れない。でも、それに何の意味がある。
だから俺は――
「手術は……いつ?」
その問いを、切り出した。
「明日……です」
すがる様な、小春の瞳。
「覚悟は、できてる?」
小春の眉がひそめられた。
「できるわけ……ないじゃないですか……できるわけ……」
微かにかぶりを振りながら、怯えたように小春が後ずさる。そんな彼女の貌を、ただ真摯に見詰めて、俺はその言葉を紡いだ。
「諦めろ。死ぬよりは、よっぽどマシだ」
始めは、信じられない、という貌。
だがそれが、次第に悲しみに、そして、怒りに塗り替えられていく。
「……ヒドい! ヒドい! あんまりじゃない! なんであなたにそんな事っ! なんで今日逢ったばかりのあなたなんかにっ! ……うぐっ! そんな……っ! こと……っ! あなたにっ! 何が分かるっ! の、よぉっ!」
ボロボロと、小春の頬を大粒の煌輝が駆け下りていく。
幾つも、
幾つも、
幾つも、
幾つも……
俺は、ただ無言のままでその場にしゃがみ込むと、自分のライディングスーツの――そのズボンの右足をたくし上げた。
小春の、息を飲む音が微かに聞こえた。
俺の、胸の奥と――失った筈の右足が、微かに痛んだ気がした。
「俺さ、昔……プロのレーサーだったんだ。だから、小春ちゃん……キミの気持ち、少しくらいは分かるつもりなんだよ」
「……ごめん……なさい、わた、し……そんなつもりじゃ……」
微かに嗚咽を交えながら、小春は視線を俺から外した。
刹那に場を満たす、言葉のない時間。
蝉時雨は止み、海風の音とヒグラシの声だけが、俺達の間を満たしている。
やがて――
「……辛く……ない……ですか……?」
ゆっくりと視線を戻しながら、呟くように小春が訊いてきた。
「辛いよ? なんで? 当たり前だろ? トイレ行くのも、風呂入るのも、買い物行くのも不便だよ」
俺はわざと取り止めも無い日常会話の様に、少し怒った様な口調で――しかし顔には苦笑いを浮かべてそう言った。
「ご、ごめんなさ……」
「でもさ」
俺は、俯く小春の言葉を遮った。
「でも、レーサー続けられなくなった事は、もう、辛くない」
過去の――あの全てを失った喪失感は、言葉通り俺の中にはもう無い。
「え……?」
小春は再び顔を上げた。俺の言葉がそれほどに予想外だったのか、新たに落ちてくる涙の雫はもう無かった。
「そりゃ、あの事故がなかったら――って、『if』を考えることは今でもある。でも俺、最近気付いたんだよ。あの事故は『あった』んだ。過去だから、もう変えようもない。そして、それでも俺は、生きてて良かったんだ、って」
目を瞑ると、俺の仕事仲間の顔が浮かんだ。
「俺、いまバイクショップの雇われ店長でさ。店員はみんなバカばっかだけど、どいつもこいつも楽しいヤツらでさ、仕事は大変な事も辛い事も沢山あるけど……毎日が楽しいんだ」
俺が話していると、小春は指先で涙を拭った。まだ辛そうだが、かすかに微笑んで、俺の傍まで歩み寄ってくる。
俺は続けた。
「それに、俺はまだ、バイク乗れるから。レースに出られなくなった後で、この義足にして、なんとかバイクもまた乗れる様になって……初めて、ツーリングの魅力に気付いた。違う自分を、見つけられたんだ。それは――」
俺が小春に教えてやれるのは、失う辛さを和らげる方法じゃない。そんな方法があるなら、俺が知りたいくらいだ。
『――生きていたから』
俺と、そして、小春の言葉が重なった。
――ようやく、分かってくれた……かな――
穏やかになった小春の表情。それを確認して、俺はやっと安堵した。
「小春ちゃん……この灯台の事、知ってる?」
突然の問いに、小春はきょとんとした貌を見せた。
「経ヶ岬灯台。1898年に建設された、日本でも六ヶ所の灯台しか使用していない、最高級第一等レンズを使用した灯台だ。こんなに儚く見えるのに、もう、百年以上もここで船を見守ってきたんだよ、コイツは。……って、偉そうにウンチク語っても、俺も実物見るのは初めてなんだけどさ」
見上げる俺の視線を追うように、小春もまた、白亜の灯台を見上げた。
もう大丈夫だ。
灯台を穏やかに見上げる小春の横顔を見て、そう、思った。
その姿はあくまでも優美で、しかしそれでいてなお、その身の内に、強さを秘める。
まるで、百年以上も日本海の厳しい風雪を耐えてきた、この――
――経ヶ岬灯台のように――
× × ×
季節は巡り、俺は忙しい日々の中で、バイクレースを観戦に来ていた。とはいえアマチュアレースで、素人が趣味で集った大会だ。だが、こんなのも嫌いじゃない。
「おーおー、キアイ入ってんな、あの16番」
先頭をひた走り、周回遅れに追いつこうとしているマシンがある。白亜のライディングスーツにヘルメット。車体も白で統一されている。荒削りだが、上手いと思った。
「なかなか魅せてくれるけど――遅いな、招待者は」
腕時計を見ながら、俺は苦笑する。時刻は、約束の時間を大幅に過ぎていた。
「っかしーな。指定席用意してんだから、迷ってるとか無いと思うんだが……」
呟きながら、俺は去年の今頃を思い出していた。
あの後、俺は小春を北近畿タンゴ鉄道の最寄り駅まで送った。
駅舎の前でヘルメットを脱いだその下には、もう、怯えた色はどこにも無かった。
去り際、不意に駆け戻ってくる小春は、俺に一つの頼み事をした。恥ずかしそうに、貌を真っ赤にして。そりゃそうだろう。俺も迂闊だったが、訊かないアイツもアイツだ。
「あのっ! 名前っ! 教えてくださいっ! あとあとっ、できればメルアドとかもっ!」
俺は、苦笑しながら社会人の必須アイテムであるところの――名刺を渡した。人伝で、客が増えてくれないものか。そんなスケベ心を微かに上乗せしながら――
「……ん~……からかわれた……かな」
数時間後、俺は人影の消えたレース場を後にした。
――まったくな~……公共交通機関を利用してご来場下さい! とかメールに書いてたからさ~、足ねぇし……駅まで歩くのかったりぃなぁ――
そんな事を考えながら駐車場を横切っていたその時だった。
「ヘイそこのにーちゃん! ツーリング行かないっ?」
背後からかけられた、女の子の声。
振り向いた俺の視線の先には、今日のレースで優勝した、白亜のライダーの姿があった。
「え~……まさか……」
半ばは驚き、半ばは呆れる俺の目の前で、その女性ライダーがヘルメットを脱ぐ。
刹那、さらりとこぼれる見事な黒髪があった。
ヘルメットを脱いだその下。そこには優美な女性の顔がある。去年と比べ、ちょっと大人びたかも知れない。でも、俺から言わせりゃまだまだ『女の子』だ。
結論から言うと、小春の手術は大成功だったそうだ。早期発見が功を奏して、切り取った部分も少しで済んだ。だが、それでも陸上競技で『以前の様な活躍』は期待出来なくなったらしい。
長年打ち込んだものを奪われる辛さは良く分かる。しかし、俺が見込んだ通りに小春は強かった。手術後、医師の診断を待つこと無く、陸上部を退部したのだそうだ。そして、次に打ち込めるものを探した――
――だからこそ……か。まぁ、驚いたけどさ。でも――
俺はにんまりと笑ってみせると、小春の額をつついた。
「まったく、ヒドい逆ナンだな。ヘイってなんだよ、ヘイって」
「逆ナンじゃないよっ?」
ぷっくりと頬を膨らませて、小春はつつかれた額をさする。
「じゃあ何だ?」
「フツーにナンパ。はい、コレ」
一転して笑顔を見せ、小春は車体側面のホルダーからヘルメットを外して俺に渡した。
「こんな時間からか? で、俺がタンデム?」
「もっちろん!」
ヘルメットを被り直しながら、小春が元気よく返事する。
「あ、ヘンなとこ触ったら、落とすからねっ?」
「ヘイヘイ、で、行き先は?」
苦笑しながら、小春の後ろに座ると――
「もっちろん! 経ヶ岬っ!」
「おうわっ?」
ウィリーを決めつつ、急発進で俺達は夕闇のツーリングを開始した。
思い出の場所――
――経ヶ岬に向かって。
(了)


 

ライターより

経ヶ岬灯台は、国道178号線沿いに走ると辿り着くことが出来、作中のルートがそれに相当します。

その全てが『京都府』に在り、見所としては、まず宮津市の天橋立。日本三景の一つに数えられる有名な観光地です。

そして、遠浅の海が広がる伊根町までの海岸線。

伊根町では『重要伝統的建造物群保存地区』に指定されている、いわゆる『舟屋』を見ることができます。

その先は蒲入まで海の見えない道ですが、蒲入からは、経ヶ岬まで断崖絶壁を縫うように通された、絶景を楽しめるコースが続きます。

そして、いよいよ経ヶ岬灯台。まずは、そこに行く前に、178号線沿いのレストハウスで、何かドリンクを仕入れておくのもいいかも知れません。お腹が空いている方は、食事も出来ます。
経ヶ岬灯台には専用の駐車場も在り、そこからでも充分日本海の眺めを楽しむことができます。
灯台までは、そこから徒歩で十五~二十分ほど。傾斜のきつい斜面を登り、ゆるやかな道を通って行くと、木々に埋れているかの様に、次第に白亜の姿が見えてきます。
そして到着。
意外と小さな灯台ですが、純白のその姿は灯台の中でも一際美しく、歴史も長い建築物です。
灯台の上にはちょっとした東屋もあり、ベンチに座りながら、灯台の白と日本海の青を楽しむこともできます。

近畿地方中部北部に在住であれば、充分に日帰りが可能なルートです。また、舞鶴市も近いので、北海道などからフェリーでやってきて、ツーリングやドライブを楽しむこともできるでしょう。
公共交通機関を使用するのであれば、JR、あるいは北近畿タンゴ鉄道などから、バスを利用することもできます。
また国道178号線は、鳥取県まで日本海にほぼ沿った場所を走る事のできるルートです。キャンプ道具を持って、数日かけて行くのも楽しいかも知れませんね。


 

[名前]
楠小春(くすのき こはる)

[性別]
女性

[年齢]
17歳

[体サイズ・体格]
T:148 B:78 W:51 H:80
小柄でスレンダー

[髪型]
黒のストレートロング。麦わら帽子

[顔つき]
儚げな、優しい顔立ち。眉はやや太めで、切れ長のタレ目。

[性格]
顔に似付かず行動派。元気娘。

[職業]
高校二年生

[口調・セリフサンプル]
「面白いです! でも……バスがなくって、ちょっと困ってたりします!」
「経ヶ岬に行きたいんです! できれば今日中に!」
「私、小春です! 楠小春!」


 

山下しんかさんのるつぼページ

経ヶ岬(Wikipedia)

経ヶ岬灯台ウェブカメラ

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